たんぽぽはるかの日常

39歳で初めて妊娠、40歳で自宅出産、41歳でエンジョイ育児。

「底辺」

『最底辺』って本を昔読んだ。
確かあれは、ドイツ人ジャーナリストが、カラーコンタクトとカツラだったか?と、強い訛りのドイツ語を駆使して、外国人労働者に扮す。
「最底辺」の生き方を知るべくして、数年間、金属の粉塵舞う作業場で、ひどい扱いを受けながら、やり通して、後に本にするわけなんだけど。

人が別な人物になりきれるとしたら、お芝居やなんかだ。
あるいは、人が人をだますときだ。
そうでなければ・・・
いずれにしても長い時間でない。

長生きできるなんて保障もないのに、「明らかにしたいもの」があるがために、自分の人生の数年の「底辺」を下げる勇気と、やりとげた根性と、あくまで常に携えているジャーナリストとしての欲求がすごい。
こういうのを、命の使い方という意味での「使命」というんか?と思ったんだったと思う。

「底辺」というのは、不思議だと思う。
自分の生活レベルがちょっとずつでも上がると、元の位置にはもういない。
「底辺」が徐々に上がっているのであって、もはや簡単に後戻りできない。

うちの職場は、拾ったものか作ったものでだいたいが揃っている。
バブルの時代に仕事をバリバリしていた人たちは、新しい事務所を作るとき、業者を呼んで、じゅうたんから机を一揃え買うのを見た。
そこに、拾うか作るはなく、おそらく中古を買うという選択肢も見てとれなかった。

他人の例を出さなくても、外食ができなかった頃に戻りたくないし、お風呂の無い家よりはある家がいいと思うし、なによりお金のせいで人とでかけるのが億劫になるのは残念だ。
いつのまにか、私の「底辺」の位置は変わっていて、どちらでもいい状態ではなくなっている。

今日観た映画は、「捨てられた人形」10年前のドキュメンタリー。
アメリカに行ったときに、集めたトロルの人形が焼けただれて画面に映った。
タイのおもちゃの工場で。
人形には保険がかかっていたけど、労働者には保険がかかっていなかった。
火災が起きたとき、扉に鍵をかけられ死んだ女性労働者たち。

思春期に観ると、憤って仕方なかった。
自分が買い揃えた人形は、アジアのある国の低賃金労働者によって作られたもので、かつ、消費者の自分は人殺し同然じゃないか!と、泣いて歯を食いしばった。

衣料についてもしかり。
繊維工場に舞うほこりが肺に入って、病気になれど、保障はなく、働いたところで生活に必要な最低限の賃金にも届かない。

その衣服を輸入して購入する自分は、一体何様でしょ。
なんか変なの。

服を買うとき、もはや製造過程の労働者のことなんて、頭に浮かばないのと同じで、繊維業に携わる労働者の映像を観ても、アラル海に行ったときのことはすぐには思い浮かばなかった。
原料に関して気が回らないんだ。


自分がマンホールチルドレンで、零下の冬を凍えて仲間と寄せ合い、ネズミに唇や耳をかじられながら過ごしたり、スモーキーマウンテンで寝起きして、毒物を吸って過ごしたり、食べるものが一切なくて、ひもじさに満ちて生きる気力がなくったり、そうでなくてもたった今、失業したりして家を失ったりするということが、今の自分の「底辺」がここである以上、リアルに想像することができない。


気づけば、「底辺」を少しでも上げたいと思ってる。


最近、頭の中はよく、「底辺」について・・・だ。
も少し考えていることがあるんだけど、自分の考えをあけっぴろげにするには、あまりにも勇気と責任がいる。


めずらしく、というか生まれて初めて、仕事のことが気になって寝付けないということが頻繁にある。
えらいこっちゃ。
オン・オフの機能が故障した。
でも、同時に自分が責任感を強く持って挑む仕事に遭遇していることをうれしくも思うのだけど。
なにより、人に必要とされているのは、この上ない生きがいなんだと思うよ。
ここでこれだけ必要とされているから、私は店を辞めたんか。と思うようになった。
自分の役割が不要になったとしたら、それはもっと別な場所で自分の役割を欲しているということなんだろう。