たんぽぽはるかの日常

39歳で初めて妊娠、40歳で自宅出産、41歳でエンジョイ育児。

はるかの妄想考の要旨

週末は和歌山に旅行に行きました。

道成寺紀伊大島も私には無縁の土地で、今回連れて行ってもらわなかったら、行くこともなかっただろうと思います。

歴史アレルギーが結構深刻な私において、歴史上の人物、出来事の名前、年号、地名は、おどろくほど見事に、文字ならばモザイクがかかって見え、人の話なら、理解しようとするとそこで聞こえてくる言葉が止まり、理解しようとしなければ、スルスルと、頭の上を通過していくかのごとく・・・という現象が起きます。

でも、まぁ、お寺のお坊さんが絵巻物語を見せてくれて、なんと、わかりやすいことか。
中高の社会の先生も、こうして物語のように話してくれたらいいのじゃないか!?と思いました。わ。

話は、安珍清姫伝説。
時は、醍醐天皇の頃。
キャストは、奥州白河から熊野に参詣に来た、超ハンサムボーイ、否僧侶、安珍
また、偶然宿にした家の娘で、これに一目ぼれした女(清姫

この清姫が、一目ぼれして、夜這いをかけたと。
安珍さんは、参拝中だからと、ノーをいい、代わりに帰りに立ち寄る。と言った。
のに、帰りに寄らなかった。

それを知った清姫さんは、追いかける。
怒って、裸足になって、追いついたときには、別人だと言われ、また怒り狂う。
そんで、蛇体となって、さらに追う。

あれやこれやの末、道成寺に逃げ込み、僧侶たちに釣鐘をおろしてもらい、その中に隠れるけれど、
無残にも、清姫さんは鐘に巻きつき、安珍焼き殺される。
清姫さんも完全な蛇になっており、水に入る。

その後の話もあって、

・・・そういうわけで、道成寺には今も鐘はありませぬ。

という筋なんだよね。
きっと、はるかが一番わかってないくらいで、日本人ならみんな知ってるんだろう。

ともあれ、私がここで取り上げたいトピックとしては、
はるかの妄想考の要にもなる点で、

ステキな人とは、ふたたび会う可能性があるのか、ないのか によって、そこでの妄想は大きく違うという点です。

たとえば、どっかの国のどっかの空港で、めっちゃカッコイイ店員がいたとする。
しばらくの間、そのかっこよさに朦朧とするものの、しばらくすると忘れてしまうのが実情である。この間、数日。下手すると数時間である。

一方で、行きつけの美容室の美容師さんとかのレベルになると、決してプライベイトで会うことはないというのに、また会える。というただその一点だけで、(今度髪切りに行ったときに、お食事に誘われたらどうしよう!?)とか、(こうなってこうなってこうなっちゃったりして!!!きゃーっ)とか、そういう妄想でかなり楽しめる。


と、まぁ、再び会う可能性のある人については、その「会えたとき」を、妄想のステージとして位置づけることができるので、ステージ(舞台)さえあれば、登場人物をどう配置しようとも、どう展開させようとも、あとは、自分次第で、どうにもできる。
これが妄想に必要なエネルギーというか、躍動する源なんだと思う。

とすると、清姫は、おそらく、女の私が想像するに、安珍をこの度は手にすることができなかったけれど、帰りに寄るんだから、その暁には・・・と、
おいしいごはんを作ってあげよう!
今よりも美しくなる努力をしよう!
この服を着よう!あそこへ行こう!
こうしよう、あぁしよう。と、実用的なことから、かなわなかったスケベイなことまで想像して、妄想して止まらなかっただろう。

それをするりと逃げられたんだから、そら、ブチッといったでしょう。わかりますよ。



他の動物たちはわかりませんけど、
人間(女子と言った方がいいか?)の持っている財産の中でもかなり上位で素晴らしいものの一つに妄想というのがあると思っています。
何人にも侵されることのない、妄想の自由があります。

大きくなってきて、妄想を構想に変えることができる(現実化する)シーン(場面)も出てきて、もちろん、妄想を構想に変えることができずに失敗するシーンも出てきて、それで余計に、妄想を栄養にして、現実を楽しむこともわかってきた。


ファンタジー(妄想世界)が自由で豊かであり続けることを祈っています。

(生物的絶滅危惧種の多い地域では、言語も絶滅間近であるという相関関係があるデータを見た@言語環境論の講義10年前 ということは、現実世界の環境が破壊されても自分のファンタジーの世界の環境は破壊されないだろう。と言うには安易かもしれない。と危惧している。)