たんぽぽはるかの日常

39歳で初めて妊娠、40歳で自宅出産、41歳でエンジョイ育児。

相対であることは、相手と対話すること

相対的という言葉の意味がやっとわかった。

仏教で、「絶対」でなくて「相対」だと知って、「絶対無理だよ。」とか、「絶対できない」とか、「絶対」と決め付けるのに待ったをかけるようになったかな。
いつも心は変化するもの。とどまることのないもの。
その瞬間、それはそれで、こうはこう。
相手によって変化する。すべてが変化する。

日本語の授業で、コリア語との比較のときに、コリア語と日本語はどちらも敬語を持っている言語だけれど、コリア語が絶対敬語なのに対して、日本語は相対敬語だという。
つまり、自分の父親について、他人に対して敬語を使うコリア語(「私のお父様がこうおっしゃっていました。」)と、相手によって、敬語の内容が変化する日本語。

陰陽を人に伝えるときに、はるかの先生がいつも口をすっぱくして教えてくれたように、必ず相対的なものだということを強調する。
果物は陰性? 根菜は陽性? ときかれたら、
何と比較して陰性か陽性かなんだよ。と答える。
同じ果物でも、ブドウは、りんごより水分が多くて拡散しているから、陰性だし、おなじ大根でも切干大根は太陽に干されているからより陽性だし。
同じはるかでも、昨日と今日とじゃ陰陽は変化する。
比べる相手によって、同じはるかでも陰といったり、陽といったり。
そこのとこを確実に押さえておかないと、変なバランスになっちゃう。


そう。相対であるということは、相手と対話することなのね。

今日教わったのは、「相手との対話がないから、お寺に来ても家と同じ様に水道をきつくしめてしまう。他の人があけられないほどに」

あぁ。なんてゆっくりとしか言葉の意味を理解できないのだろう。でも、なんて浸透してきた感のある気づきなんだろう。

もう何週間も外に放られたままの靴下片いっぽを拾い上げようと思う。
今日の私は、昨日までの私とは違う私ですよ。と靴下の片いっぽに伝えるなら今日だと思う。