たんぽぽはるかの日常

39歳で初めて妊娠、40歳で自宅出産、41歳でエンジョイ育児。

【赤目自然農塾】と創作料理のワークショップ

関西にいる間に、赤目自然農塾に行かなくては!と、意気込んで京都にやってきたのが、丸6年前。

初年度は、おぉ慣れぬ社会人と京都で、気持ちがいっぱいいっぱいだ。よそまで行ってられませぬ。
次年度は、おぉ京都おもしろすぎる。楽しくってよそまで行ってられませぬ。
3年目は、うぅむ。忙しすぎる。身体が空かない。よそまで行ってられませぬ。
以下同じで、いつのまにか、ちょっとおかしいんではないか!?と、首をかしげるほどに、時間が過ぎ、もはや6年が終わろうとしている。

そして、ついに、もう後がないかもしれない!と、自分に言い聞かせ、行ってきた。
自分の周りの人は、かなり多くの人がお世話になっているというのに、自分は初参加やった。

昼間の田畑を舞台にした学びと違って、夜の言葉を通した学びの時間は、
えらく哲学的で難しくもあったけど、私の欲していたことを話されていて、興味深かった。
ただ、彼が自然のことを話されているのを、私がいちいち人間のことに置き換えて解釈するもんだから、
ねじれてしまっていて、吸収できたと思ったものを、こうしてアウトプットできずにいる。

「 食べる営みはなくならない営み
 食べる営みは消費する営みじゃない
 循環している さらに豊になっている 」

以前から、消費という単語に、あるシーンにおいて、なにか違和感を感じていた私には、かなりのヒントがあるように思う。

「 この一万年、耕すことで、労力とエネルギーの無駄をしてきた。これが消費 」

自然農で大切にしていることで、草や虫を敵にしない。というのがあるけれど、
「 害虫、益虫の違いはない 」と川口さんは繰り返されます。

「 他の生命を殺して、少し収穫できることに目をくらましてはいけない。 少し栄養をあげても 死体を寝かしてくれる。 」
つまり、収穫したいものを少々食べられても、その土壌にその害虫が横たわれば、それは土が豊になるというわけで、ここには循環がある。

循環という言葉に対しても、いろんなシーンにおいて、違和感を感じることがある。
それちゃうやろ?みたいな。

流行言葉は、裏がありまくって、嫌悪感に変わります。
エコとか、もういいよって感じ。職業にエコが付くけど。

あぁ、それで川口さんの循環の話を聞いて、自分にひきつけて考えることがあるとすれば、それは、
うちに来るお客さんに対して、なんちゅぅか心から振舞える客もあれば、内心、振る舞いばっかで損やなぁと思うこともあるのです。
でも、この金銭的に損やと思っていることでも、お前(←はるか)が得ていることがあるやろうが!
とも思うのです。
得ていることが、目に見えたり感じられたりすると、安心するけど、見えにくいことだと文句が口をつく。
器がなかなか大きくならないわ。

それでもだいぶ変わったと思ってるんだけどね。
よく思い返せば、最近はほとんどなくなってきたな。