たんぽぽはるかの日常

39歳で初めて妊娠、40歳で自宅出産、41歳でエンジョイ育児。

被災した集落と京都のギャップ

ギャップが苦しいのです。

と、言い続けてきたけど、もう少し言葉にしたならば、
それは、

team SAKEで訪れる集落の人たちは、
生そのもの、生命そのもの、LIFEそのものに
感じるのです。

命を使ってる感じ。
使命とはこういうことだよという感じ。

自分があちらに居る間は、あたかもその仲間の一人として
まさに生そのもののようにそこにいる感じがする。

それが錯覚であったと京都に戻って気づく。

のほほーんと、あっ気づいたらまた一週間経っちゃった。
みたいな暮らしぶりで、時間を積み重ねている。

そのギャップがしんどいのだと思う。


千葉の友人の子どもたちは、外遊びが大好きで、
早い段階で、鼻血を出し始めた。

母としては、目に見える形での主張に対し、
動く必要性を感じる。

だけども、子どもには子どもの、母親に母親の
父親には父親のつながりがあり、世界があり、
社会がある。

これを断ちきることはできない。
折り合いをどうつけていいかわからない。
ここでは書き現せない苦しみを抱えている。


京都に、住むとしたら?という目線を持って
今滞在してくれている。

子どもらは、うちで浄水から水を飲めることに
目を丸くした。
外で転げ回って遊んでも、怒られないことに
あれ?って思ってる。

子犬のように、じゃれあって、からみあって
転げ回って遊ぶ姿を見て、あーこれが、
彼が彼であることなんだよなー。と思う。

私が私でなくなったら、その時は死ぬ時だ。
って思うのと同じ様に、彼には彼でいてほしい。

深泥ヶ池で、水草とって遊ぶ姿、鴨川でエビ捕まえたり、
公園に寝っ転がったり、その全ての自由を奪った原発
一体どうやって肯定できるんだろう。

土が命、水が命の私たちが、一体どうしてそれを手放して
いいんだろう。

津波の被害にあった集落の人たちも、
京都の私たちよりも被ばくしている友人たちも、
いつも原点は いのち だと、繰り返し繰り返し
伝えてくれてるよ。

それに真に気づかないと、私たちバカだ。