たんぽぽはるかの日常

39歳で初めて妊娠、40歳で自宅出産、41歳でエンジョイ育児。

8月の広島

週末は、山口に仕事で行ってきた。
行き先は、YCAM(山口芸術情報センター)
目的は、yamaguchi Mini MAKER FAIREへ出展するため
Maker Faire は、アメリカで始まった DIYの祭典みたいなもの。

詳細は、会社のホームページに同僚がまとめてくれた。
http://www.hinodeya-ecolife.com/article.php/20130812165837503

逃げ回る目覚まし時計見た時は、昔付き合ってた人が、128回ボタンを押さないと鳴りやまない目覚まし時計を作って誕生日にくれたのを思い出したわ。

テクノ手芸って、女の子たちが手芸と電子工作を合わせているのは、すごくテンションあがった。すぐ友達になった。

宿泊した紅花舎って宿は、本当にオススメ。
ごはんとお水がおいしいの!
http://www.yamaguchiyh.com/koukasya_cafe/otomari.html


山口への道中、運転ができない私は、本を読んでいた。
長らく読もうにも読めなかった本

石巻日々新聞社 2011『6枚の壁新聞 石巻日々新聞・東日本大震災後7日間の記録』
http://www.hibishinbun.com/pdf/6mai.pdf

地名がこれだけわかる今、読むとかなりリアルで。
震災後3月中に現地入りした私は、当時の記録でなんとなく状況が目に浮かぶ。
山口へ向かっているはずの自分が、いつのまにか東北へ向かっている気でおった。

父が、震災後、「どうして大手新聞社は、石巻日々新聞(いしのまきひびしんぶん)の印刷に手を貸さなかったのか。
壁新聞の価値は、米国の方がわかっていて、すぐに買い取った。なぜ日本の図書館がすぐに買わなかったのか。」
と、何度も言っていたのを聞いた影響もあるけれど、
ここまで地元に密着した新聞社の震災後の動きというのが、純粋に興味深かった。

もはや今の時代は、競争ではなく共創(きょうそう)の時代だと言う。
震災後の混乱期に、地元の地形や地理、団体や会社等を深く把握している小さな新聞社に、大手が力を貸す場面があれば、それはそれでのちのち称えられることにつながったろうとも思うし、より多くの人が情報を得られて良い方向に動けたとも考えられる。
全ては後のまつりの話なんだけど。



2日間山口でのMAKER FAIREを楽しみ、山口在住の旧友に会ったり、初めて会うのに私を訪ねてきてくれた人に会ったりして、ひとり広島に移動した。

友達の実家を訪ねて、宮島の水上花火大会を見た。
鳥居の脇から見る花火は、圧巻だった。
よく考えれば日本の花火を見るのなんて、10年ぶり。

感動して、涙が止まらなかった。
生きている実感を、花火で与えられるなんて。

同じ11日(8月11日)は、被災地でも追悼と復興を願って、そこここで花火大会があった。
http://lightupnippon.jp/

うわ~んって泣いた。
真っ暗な中で、手ぬぐいで目だけ出して、花火見ながら、顔を覆って泣いた。

翌日、広島の平和記念資料館へ行った。
これまた久しぶりだ。10年ぶりくらい。

8月に広島の平和公園を歩くのは、また特別だよ。
資料館はスゴイ人だった。
若いカップルや、親子連れは、展示を見ながら、「戦争はあかんわ」「こんなん絶対イヤ」とつぶやいていた。

そだよな。
8月15日、天皇も列席している「全国戦没者追悼式」の記念演説の安倍首相の話に、
・戦後の歴代首相が必ず使ってきた「不戦の誓い」という単語が初めて削除
・1993年以降一人の首相も8月15日の記念演説で抜かさなかった韓国など近隣諸国に対する反省と哀悼の表現を、丸ごと削除
されていたニュースには驚きだよ。

広島と長崎の資料館観てから演説してほしいよ。

広島の資料館の地下では、はだしのゲンの原画展が企画展示されていた。
原画、スゴイ。

広電に乗って、広島駅に帰る道すがら、
道ゆく全ての人を、あの人もこの人も、あの戦争で生かされた人の子や孫かもしれないんだ。と思ったら、全ての人が愛しく思えた。

あの状態から、なんとか生きた人が、生き抜いて、子や孫を育てた証なんだと思って、驚きながら移動した。

そんで、路面電車の中で前に立った人が、京都の友達やってまたビックリした。
地球は本当につながっている。
京都まで一緒に帰ってきた。