英語と協働コーディネータの養成講座 未来のはるかへ
はるか彼の後輩で変わった人がいる。
はるかにブログがあることを知った彼は「見ましたよ。」と言った。
そして、いつだったか思い出せないくらい前の内容の日記を話題にするので「?」と思ったら、なんと、最初から読んでいる。と言う。
2003年から。
それで、えらいこっちゃ。数年前の自分は一体どんなことをどんなふうに書いていたのだか。と思って、適当に読み返した。
ら、覚えていないこともあったし、へぇ~と教わる感じのこともあり、書き留めておくことは、未来の自分へのギフトでした。そうでした。と改めて思った。
(読み返したものの中でも覚えがなく、かつ驚いたのは、宇都宮から幼なじみが来たときに、「はるちゃんホント変わったね。いい人に恵まれたんだね。でも、昔から軸みたいなのは変わってないね。たとえば、小ちゃい頃、『このガム、すぐ味がなくなるね。』って言ったとき、『はるか、のみこんじゃったよ。平気だからみんなのも飲み込んであげる。はいちょうだい』とか。」)
それはいいから。
・・・本題までが長すぎる。
今年は英語を始めた。
去年、エピゾバングーラのライブを主催した折、自分の通訳が、あまりにもひどくて、うんざりしたのと、引っ越した先のすぐそばに、興味深い英語の教室があったから。
90分の授業で、ねっとりした汗をかく。
スパルタな感じで、私が人生でさんざん避けてきたやり方です。
高校時代のリーディングの授業は、もっぱら予習をせずに、隣のクラスの予習を完璧にしている人からノートを借りてくる。
というスタイルをとっていて、かつ、英語を日本語に変換するなんて変だ。
英語を英語で理解したらいいじゃないか。
なんて、天の邪鬼な考え方でいた。
単語テスト(文の中の単語でなく、単語だけで英→日とか日→英とか)は、全然できないのに、なぜか長文は読める(と思っていた)。
英語の教室で、先生に、英語で聞いたものを日本語にできないということは、なんとなくわかっているだけで、真にわかっていると言えない。
と言われ、
妙に納得してしまった。
私は、日常でも、知ったかするところがある。
というか、知らないことに対して、知ろうという意気込みがないというか。
知らないことにひっかからない。ひっかかろうとしない。スルーする。
知らないことが多すぎてという言い訳で。
最近のニュース(初めて聞くもの)を、その場で、日本語にしないといけない。
全体を聞き終えると、なんとなくわかった気がしてるんだけど、それを一語一句追っていく。
全神経を集中させて聞き取る。なんて、滅多にない時間の過ごし方で、これで、90分終わるころには、脳みそが全身運動をした後の様にスカッとして、汗ぐっしょりになってる。
協働コーディネータの養成講座を受けた。
コーディネータとは、通訳みたいな役割だとキムテッチャン氏は言ってた。
自己と他者(自分とは考え方を異とする人、自分とは違う人)をつないでくれる。
通訳者とは、例えば英語話者と日本語話者の間で、それぞれが言うことを伝える役目をしていて、これがいないとお互いのいうことが分からない。通訳者は必須だ。
かつ、簡単にはなれない。と。
この簡単にはなれない。というところがキーなんでしょう。
コーディネータとは、調整するんと違って、双方を活かして(双方のメンツを守って)、そこにないものを生むことを助成するんだと言った。
間から見るということなんだと。
そうそう。協働コーディネータの養成講座で得たことを書いておけば、いつかの自分がこの日記を読み返したときに、助けになるんではないかと思って、冒頭にあぁ書いたんだった。
もう少し詳しく書いておこう。
はるかにブログがあることを知った彼は「見ましたよ。」と言った。
そして、いつだったか思い出せないくらい前の内容の日記を話題にするので「?」と思ったら、なんと、最初から読んでいる。と言う。
2003年から。
それで、えらいこっちゃ。数年前の自分は一体どんなことをどんなふうに書いていたのだか。と思って、適当に読み返した。
ら、覚えていないこともあったし、へぇ~と教わる感じのこともあり、書き留めておくことは、未来の自分へのギフトでした。そうでした。と改めて思った。
(読み返したものの中でも覚えがなく、かつ驚いたのは、宇都宮から幼なじみが来たときに、「はるちゃんホント変わったね。いい人に恵まれたんだね。でも、昔から軸みたいなのは変わってないね。たとえば、小ちゃい頃、『このガム、すぐ味がなくなるね。』って言ったとき、『はるか、のみこんじゃったよ。平気だからみんなのも飲み込んであげる。はいちょうだい』とか。」)
それはいいから。
・・・本題までが長すぎる。
今年は英語を始めた。
去年、エピゾバングーラのライブを主催した折、自分の通訳が、あまりにもひどくて、うんざりしたのと、引っ越した先のすぐそばに、興味深い英語の教室があったから。
90分の授業で、ねっとりした汗をかく。
スパルタな感じで、私が人生でさんざん避けてきたやり方です。
高校時代のリーディングの授業は、もっぱら予習をせずに、隣のクラスの予習を完璧にしている人からノートを借りてくる。
というスタイルをとっていて、かつ、英語を日本語に変換するなんて変だ。
英語を英語で理解したらいいじゃないか。
なんて、天の邪鬼な考え方でいた。
単語テスト(文の中の単語でなく、単語だけで英→日とか日→英とか)は、全然できないのに、なぜか長文は読める(と思っていた)。
英語の教室で、先生に、英語で聞いたものを日本語にできないということは、なんとなくわかっているだけで、真にわかっていると言えない。
と言われ、
妙に納得してしまった。
私は、日常でも、知ったかするところがある。
というか、知らないことに対して、知ろうという意気込みがないというか。
知らないことにひっかからない。ひっかかろうとしない。スルーする。
知らないことが多すぎてという言い訳で。
最近のニュース(初めて聞くもの)を、その場で、日本語にしないといけない。
全体を聞き終えると、なんとなくわかった気がしてるんだけど、それを一語一句追っていく。
全神経を集中させて聞き取る。なんて、滅多にない時間の過ごし方で、これで、90分終わるころには、脳みそが全身運動をした後の様にスカッとして、汗ぐっしょりになってる。
協働コーディネータの養成講座を受けた。
コーディネータとは、通訳みたいな役割だとキムテッチャン氏は言ってた。
自己と他者(自分とは考え方を異とする人、自分とは違う人)をつないでくれる。
通訳者とは、例えば英語話者と日本語話者の間で、それぞれが言うことを伝える役目をしていて、これがいないとお互いのいうことが分からない。通訳者は必須だ。
かつ、簡単にはなれない。と。
この簡単にはなれない。というところがキーなんでしょう。
コーディネータとは、調整するんと違って、双方を活かして(双方のメンツを守って)、そこにないものを生むことを助成するんだと言った。
間から見るということなんだと。
そうそう。協働コーディネータの養成講座で得たことを書いておけば、いつかの自分がこの日記を読み返したときに、助けになるんではないかと思って、冒頭にあぁ書いたんだった。
もう少し詳しく書いておこう。