たんぽぽはるかの日常

39歳で初めて妊娠、40歳で自宅出産、41歳でエンジョイ育児。

もしかして

もしかするとこの家に住んでいたなら、平和だったのかもしれない。なんて思うことがある。

洗濯機を置いて布団を干してもまだピクニックできるほど広い、このベランダのあるうちであったなら、洗濯機が遠くなくってもっとラララ~という気分で洗濯ものできたのではないか。
とか

背の高い大きめ容量の冷蔵庫と、掃除のしやすいガスコンロとおいしい水の出る浄水器のあるキッチン。
レンジもオーブンもトースターもない、ポットや炊飯器はもちろんない。
この赤いタイルに囲まれたこのキッチンであれば、ルゥルルーという気持ちで料理ができたのではないか。
とか

友達が一切こない生活をしていればこうしてのんびりと、広すぎるスペースがなければこうして限られた植物に水をやる余裕や、掃き掃除をする余地があったのではないか。
とか

なんか「もしかして・・」と考えてしまう時がある。

それは、一定の戻らぬ過去に対する特別な感情から生まれるものなのかなと思う。
あるいは、単に等身大でない家に暮らしていたのかもしれない。
ぐぅたらの私には、2Kがちょうどいいのかもしれない。

一方で、他人からはくだらないことと思われるだろうけれど、自分にとって、家事はパートナーとフェアにやるということに、ここまで固執する気持ちがあったのかという気づきもある。

共同生活をする度に感じてきたことだったけれど、ルールを特に決めていなくても、誰かがやってくれると、自分も別のどこかでできることを探してやる好循環が生まれる。
私はこれが好き。

それは知っていたのだけれど、家事をやってくれないということを最大の理由に、カリカリ過ごしてきた日々は、自分に問題があると思っていた。
自分の課題を他者のせいにするかっこうの餌のような扱いをしているんだと思っていた。

自分と同じ様にしてほしいと相手に求めるのは間違っている。とか、
別なこと(知識や精神的なものや知恵や体験などの形にならないもの)で補われていることを忘れているのはマズイ。とか、だから、がんばらなくちゃならないと思っていた。
自分が望むように相手を育てたらいい、とか、自分がやりたいことをやって相手には求めない、とか、過去の共同生活で家事を分担していた時代への恋しさにしがみついてはいけない、とか・・・いろいろ。

でも事実、うちの父親は大変に家の事をする人で、そういうものだと自分の中にインプットされているのかもしれない。

いい悪いを別にしてわかってきたことは、私は家の事や暮らすこと自体に自分の時間や労力をパートナーとフェアに使うことに、かなり強い執念があるということ。

自分の平穏のためには、ここは譲らずいくしかない。
たとえ、人生が多少豊かさに欠けるものになったとしても、これからの私は平穏こそがなにより大事。
これまでの人生は不思議に満ちた、ジェットコースター的なものだったかもしれない。でも、その経験があったからこその今の判断。

家のせいじゃない。
引っ越して約1年要した。